ミーハーでごめんね

ミーハーでごめんね

I AM LOWBROW, AND I'M SORRY.

芳華-Youth-

物語の舞台は1970年代の中国、激動の時代に在った、
"軍で歌や踊りを披露し兵士たちを慰労し鼓舞する歌劇団・文工団"。
映画が始まって、私までいきなり知らないところに連れてこられたような気分だった。
なにもかもわからない。どうしていいかわからない。
いや、観るしかないんだけど。


本作は群像劇も群像劇、登場人物それぞれが映画のなかで自分の人生の主人公であった。
だから私自身も作品のどこにいて見ていればいいのかずっと迷っていたのだと思う。
そこで描かれる彼らの青春は生々しかった。正直いじめを描くとは思わなかった。




宣伝ビジュアルが華やかで鮮やかでとにかく目を引く。
これに導かれて観たようなものだし、



なにより想像以上の悲しさを、「美しい青春」としてかたちにしてくれている。
ビジュアルはイメージだけれど、それでも私にとっては救いだ。




戦時下にある彼らの青春の華やかな部分はものすごく簡単に奪われる。
このふたりが主役だよね?、と思っていたふたり、シャオピンとリウ・フォンが、
主役らしい待遇を受けていたのは最初のほうだけで、
彼らの人生もいとも簡単にチェスの駒のように動かされてしまう。
彼らは決して特別な存在ではない。
ふたりは他の登場人物たちと同じように自分の思うままに振る舞っただけなのに、
文工団から過酷な戦地へ送られ、とてつもない惨状のなかにしか居場所を得られなくなる。
これが戦争か。こうなることが「主役」なのか。
美しい映像で忘れがちになるけれど、戦時中なのだ。




素晴らしい舞踏で魅せてくれたシャオピンを演じたミャオ・ミャオさんは、
なんといま現在30歳だそうで…!どう見ても17歳だったぞ!?
そしてリウ・フォンを演じたホアン・シュエンは、



本作では舞踏のシーンこそなかったけれど、彼こそ北京舞踏学院の演劇部出身で、
CMなどでバリバリダンスしているという。お目にかかりたかったな。




徹底的に「文工団」という場所をベースにしていたのがよかった。没入感がすごい。
"彼らの青春はここに閉じ込められている"という閉塞感がつらくもあった。
ここにいるしかないのか。だからいじめなんてもう最悪で、逃げ場がないのである。
ここにいるしかないからここにいることを望む。ここがすべてなのか。これが戦争か。


映画が終わって、とても悲しくなってしまってものすごく脱力していた。
映画『主戦場』の余韻がまだまだ強く残るなか、
タイミングもあって無理矢理観たのでいつも以上に疲れたのかも。
スクリーンの外にある映画館の椅子に座ってからなかなか動けなかった。

主戦場




素手でノーガードの殴り合いである。
その名のとおり、そこはまぎれもない「主戦場」であった。



そう、「主戦場」。



ファイターよろしく出演者たちが言葉を放つたび、こわかった。
人間が考えていることや思っていることを言葉にして発することがこんなにもこわい。
自分のこと以外の人間のことは当然「わからない」にせよ、
絶対に「わかり合えない」ことがあるのだ。知らなかったわけじゃないけれど。


でも気がつくと殴られていたのは私だった。
アッパーくらって脳震盪を起こしている。ずっと頭が痛い。





ところが。


匿名での暴力がインターネットに当たり前のようにあふれかえっているいま、
生身の本物の人間が、こういったかたちで映画に登場するだなんてすっごいな~~~!
と、思っていたら、



なんか揉めてたんですけど。
こうなってしまうと、こちら(私)の映画に対する姿勢も変わってきてしまう。




ハイテンポかつクールなスタイルでグイグイ惹きつけて、
それでいて一貫してドライな視線であったのがよかったのに。


本作は「ドキュメンタリー映画」と謳ってはいるけれど、それではないと思う。
映画が伝えたいことを理由に「悪役」として描かれているひとがいるからだ。
終盤の制作側の主張はかなり強いものだったけれど、それでもスマートだった。
だからこそこちらも作品の姿とパワーをそのまま受けとめていたのに、
こんな感じで揉めちゃってるの、なんか後味悪いというか…




映画の外で、"誰が「悪」だ"みたいなことにはなってほしくなかった。
作品の主張のなかに「悪役」が存在することを否定するつもりはないけれど、
「悪役」としての配役がなされた経緯のようなものが、
こういったかたちでハッキリと知らされることになってしまったのは、残念すぎる。
こんなこと言ったら、だからこの国は変わらないだのと言われてしまうのだろうか。
とにかく、一連のいざこざを知る前に観ることができて本当によかった。




映画では、韓国のアイドルに触れていると、どうしてもぶち当たる従軍慰安婦問題について、
なにがどうしていまもこんなにこじれてしまっているのかということが、
貴重な資料と過去のメディアというメディアを遡って、とてもわかりやすく説明されている。


その点では本当に見るべき映画だし、見なければならない映画なのだけれど。
なんかケチがついちゃった感じで惜しいな~悔しいな~。
「ここが本当の主戦場(ドヤ」とか言いだしたらどうしよう。
そんなオチだったら本当に萎えるんですが。



と、いったんは思ったりしたんですけどね。



逆を言えば、"慰安婦問題がなぜこんなにこじれてしまっているのか"ということを、
本来伝えるべき立場のメディアが、この映画の「ケチ」をきっかけにようやく動いたのだ。

この映画にようやく引っ張り出されてきたというべきか。
このことで、いまの日本の報道機関の在りようの一端があぶりだされたようなものだ。
そういった意味で、この映画の功績はとてつもなく大きい。


そして、こんなにも国にとって都合の悪いことを私たちの目に留まらないようにする力が、
現在進行形で動いているという事実はショックだった。
これは知らなきゃいけないことだと思う。
それらは映画そのものだけでなく、映画を取り巻く環境も含めて物語っている。
たくさんのひとに観て欲しいと願う。

Bunkamura30周年記念 シアターコクーン・オンレパートリー2019 DISCOVER WORLD THEATRE vol.6「ハムレット」 in シアターコクーン

2019年の目標として「生の岡田将生を見る」ということを密かに掲げていました。
そうしたらタイミングよく機会がありまして、このたび観劇というかたちで叶いました!


その演目が『ハムレット』だと知った日には、「将生よ、大丈夫か?」と思ったけれど、
よくよく考えたら私のほうこそ「大丈夫だろうか…」という感じでしたね…


お恥ずかしながら、「ハムレット」と「シェイクスピア」のどちらが題名だかもわけがわからなくなるレベルのど素人だったので、今回はさすがにあらすじを予習しました。
予習も紆余曲折というか、「自分が理解できるあらすじ」を探すところからはじまるという、
なんたるシェイクスピア作品のハードルの高さよ。
この『3分でわかるハムレット』という動画が本当にわかりやすかった!ありがとう上智大学!





本当に心から、あらすじを予習しておいてよかった、『ハムレット』。
予習していたからとくにつまずくことなく観劇できたけれど、
あれ予習してなかったらたぶんなにがなんだかわけがわからなくなっていたと思う。
冷静にセリフとか聞いてると単純にセリフを発する速さに耳がついていけなかったり、
どこかの方言かなと思うくらい何を言ってるかわからないところあったし。


実際に隣に座っていた女性、めっちゃこくりこくりしちゃってた。
さっきオペラグラスとか覗いてたのにまじで!?って思ったけどまぁしゃーない!わかるよ!
あの言葉の圧でわけがわからなかったら眠くなっちゃうよね…




ところで今作は、1幕はこれは岡田将生のソロコンサートか?、というくらいの、
岡田将生ファン感涙もののスーパー岡田将生フェスティバルといった感じで、
岡田将生以外がまるで背景かのように感じられる佇まいだったのだけれど、
『ハムレット』ってそういう戯曲なの?演出なの?わからん。







岡田将生、美しすぎる。


こんなに美しい人間を、見たことがない。







岡田将生の美しさ、日本の宝だし世界の宝でもあると思う。
美しいというだけで舞台上における圧倒的な存在理由があると思わせるとんでもない美しさ。
顔が綺麗とか背が高いとか脚が長いとか細いけどちゃんと男らしくてがっしりしてるとかいろいろ形容できるけど、混じりっけのない「美しい」ということばが一番しっくりくる。


そんな美しい男が身を捧げるかのように、舞台で自身をさらけだしている姿が凄まじすぎて、
最初にハムレットが舞台でひとりきりになったときにめちゃくちゃ泣いてしまった。
そして、ああこれが私が舞台のいちばん好きなところだなぁって思った。




演技はこちらの心配をよそにとても立派なものだったけど、既視感があって。
それは昨年放送されたドラマ『昭和元禄落語心中』で演じていた菊さん。
"菊さんが落語を噺しているときの演技をする岡田将生"と似ているように感じました。


今期の朝ドラ『なつぞら』で演じているチャラっとしたキャラクターは、
キャラに岡田将生の持つ貫禄というにはまだ及ばない存在感が負けちゃってる気がして、
あんなに好感度の高い朝のお茶の間にぴったりの俳優さんなのに、
朝ドラというものに驚くほど馴染んでいなくてびっくりしていたんだけど、
たぶんあれこそがよく見かける"岡田将生の素直な演技"なんじゃないかなって思います。
今作や『昭和元禄落語心中』では、対象のキャラクターを演じるために、
演技をする前から演技をするための自分を演じている・用意している、というか。
器用なんだか不器用なんだか。


あっでも岡田将生、あの見た目からは想像できないくらいかなり動けるので、
それはめちゃくちゃびっくりしました!!!!!
あれは映像では絶対にお目にかかれないやつなので、
本当にスーパー岡田将生フェスティバルありがとうすぎます。
あんなに美しいのにあんなに動けるの、あまりにも予想外でした。
あの非日常的な美しさの造形の人間があれだけ動けるのは、
もはやエヴァみたいに誰かが操縦してるんじゃないかって疑うレベルです。




とにかく黒木華ちゃんの演じたオフィーリアがすごすぎたんですけど!!!!!!!!
1幕はまじで岡田将生のソロコンサートかなという感じで、
ファンとしては嬉しいけど舞台としては…という感じだったんです。
けれど、2幕で黒木華ちゃんのオフィーリアが「完璧な悲劇」をつくった…たったひとりで。


1幕の将生のソロコン(違)では、オフィーリアも他のキャストと同様に、
あまり目立った存在ではなかったように感じました。
ところがどっこい、2幕で、ハムレットよりずっとずっと少ない登場時間で、
一気に舞台の核を作り上げた黒木華ちゃん、本当にすごすぎました。


確かに「ハムレットを演じる岡田将生」には泣けたけれど、
「黒木華が演じたオフィーリア」に泣けたのとは同じ「泣けた」でもまったく種類が違う。
てか黒木華ちゃんめちゃくちゃ綺麗でびっくりしました!
そしてオフィーリア退場後、一気に舞台上の「悲劇」の強度もがくっと落ちた気がする…


とはいえ、2幕に関しては岡田将生も完全にエンジンかかっていて、
1幕のような妙なクセはあまり気にはならなかったです。
ノッてるというか、舞台の上で演技することをとても楽しんでいる感じ。
本当に1幕の将生のソロコンはなんだったんや…




一昨年に観た生田斗真と菅田将暉の『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』は、
『ハムレット』のほうを先に見ていたほうがよりおもしろかったんだろうなぁと思いました。
ちゃんと「劇団」などの共通の登場人物も出てくるので本当にスピンオフだったんだな~と。
また、今作とはキャストや演出をはじめあらゆるものが違うからこそ、
スピンオフものとしてもぜんぜん違った楽しみ方ができそうで。
有名戯曲ってそういう楽しみ方があるのか~と観劇素人は初めてそれに気がついたのでした。
それでも私の観たロズギルはロズギルでしっかりとおもしろかったんですけどね。


ハムレット対決として『ロズギル』の林遣都と見比べるのもおもしろかった!
林遣都はさすが達者という感じで、血走っていて生き急いでいて、
「主役じゃないハムレット」だからこその、主役らを食う勢いの熱量がすごくよかったし、
岡田将生のほうはフィジカルというか見た目の圧倒的な美しさもスキルのうちという感じ。
でもそれも才能だし、実力だし。
岡田将生は「主役」だったからこその若さゆえの虚無やなりふり構わない荒々しさがとてもよくて、幼くて青々しくてみずみずしい、魅力的なハムレットで…
う~やっぱりどっちも好き!ほら~こうやって楽しむことができるのが有名戯曲なんですね。
いろんなひとが演じるハムレットが見てみたくなるなー。


野田秀樹とかKERAさんとかの演出が好きなので、今回はそこはちょっとな~と。
「舞台がおもしろかった」っていうより、どうしても役者さんのことばかりに。。
ただでさえ完全に岡田将生目当てで観劇ということもあるしで。
松雪泰子とか映像でもめちゃくちゃ強いのに、舞台のほうもすごく強かった!綺麗!
青柳翔もご立派になられて…!と感慨深いものが。
『劇団EXILE』、ここまできたかという感じ。とてもよかったし、すごく格好良かった。
ただ、にじろーは好きなんですけど、今回はちょっとわかんなかったっす。


セットはまぁという感じだったし、演出もまぁという感じではあった。
衣装に関してはちょっと理解に苦しむ感じだったな…ロズギルはパジャマじゃん…




今回、生まれて初めてのバルコニー席でした。下手側。
バルコニー席、めちゃくちゃよかったんですけど!超近い…
私は背が低いので座高も低くて、割といいはずの席でも基本的に埋もれがちなんです。
それと比べるとサイドのバルコニー席のほうが「見えにくい」っていう基本的なストレスがまったくなかった。前の方だったからかな?


でも席の名称が「BL」だったもんで、ちょっと席探してたら若いお兄さんに「BL(びーえる)ですか?」って爽やかに聞かれてなんだかめちゃくちゃ恥ずかしくなっちゃったよ…


おまけに、席の前を普通に岡田将生が通るし、
席の横を岡田将生が普通に通るし(もちろん演出だけど)めちゃくちゃおいしかった…


そんな恵まれた座席だったにも関わらず、
観劇のブランクもあってか双眼鏡は持っていったのにオペラグラスを忘れまして。
近すぎたのか双眼鏡ではボケボケでしたね…
それだけ肉眼でも十分な席でしょうということなんでしょうけれど。
それでも人間欲張りですからもっと将生をよく見たかったなぁと。今後に生かしたい。




そしてまたしても平成・令和云々の話なんですけど。
自分でもびっくりなのだけれど、今回のチケット発券のお知らせがきたときに、
このチケットをなんで取っていたのかが本当にわからなくなってしまって(笑)
理由はもちろん覚えてるんだけど意思を忘れたというか。混乱。
理由はまぎれもない「生の岡田将生を見る」というミーハー極まりないものだけれど、
個人的元号問題は思ったより深刻で、そのときの熱量が…どこかにいってしまったのか…?


こんなことある…?


いまでこそ、またそこから少し時間が経って、
いままで触れてきたものに対してどういうふうに触れたらいいのか忘れてしまうという、
記憶喪失もびっくりの状態からは抜け出せたものの、本作のチケットを発券した時期は、
世界のタイムラインのなかで自分だけ止まってしまったかのような感じがあってすごく「ひとり」を感じていました。


舞台ってチケットの販売がめちゃくちゃ早いじゃないですか。
今回のチケットも約半年くらい前に購入しているんですよね。
まぁ興行やその内容のことを考えたらぜんぜん不思議じゃないんだけど。


でも、今回本当に生の岡田将生を見ることができて、やっぱり岡田将生が好きだなぁと実感。
平成の私からプレゼントをもらったかのようなちょっと不思議な気分です。
そして、舞台でしか見ることのできない岡田将生、もっともっと見たくなったのでした。

森美術館15周年記念展 六本木クロッシング2019展:つないでみる

ミニョンくんが行ったところに行きたかった。
ミニョンくんの目に写ったものが見たかった。



「アートよりアイドルのほうがよっぽどアートだよね」というところにたどり着き、
あんなに行っていた美術館と疎遠になって早数年。
そんな私が今回、美術館に行ったきっかけはなんとミニョンくんでした。
K-POPアイドルに美術館へいざなわれる日が来るとは。




『六本木クロッシング』という展覧会タイトルは大好きです。
なんなら『高輪ゲートウェイ』というネーミングも、ハロプロ楽曲のタイトルみたいだし、
『ブルーライトヨコハマ』みたいで好きなので猛批判を受けているのが悲しかった。。


森美術館て、施設のつくり的に他の有名美術館と比べると圧倒的に開放感に欠けていて。
「作品を見る」ということが美術館に赴くいちばんの理由ではない場合、それって結構致命的なんだけど~とか久しぶりすぎてねちねち思ってたり。


おまけに私、森美術館のキュレーション系企画展(?)とは昔から相性がよくない。
本展も、南條さんのあいさつ文にからしてかなり不安でした。テーマが「つながり」て。
まぁ「つながり」というテーマは展示を見進めていくにつれ、
ほぼそれ忘れられているのでは…という印象になっていったわけだけど(だめじゃん…)、
それとはぜんぜん別で、好きだなと思う作品がちゃんといくつかあってほっとしました。


私はアートがもっとたくさんのひとにとって身近な存在になってほしいし、だからこそ、
業界のエライひとたちが露骨に嫌がる「架け橋」となってくれている有名なアイドル的な作家さんたちは本当に大切にするべきだと思っている。
だからテーマに「つながり」というわかりやすいワードを用いたことは悪くないと思った。
でも、それと作品や展示そのものの質に関してはまったくの別問題。
…とか思っちゃうのは許してくださいという感じではあった。




この手の展覧会はやっぱりインスタレーションがめちゃくちゃ強いなとしみじみ思いました。
というか、そもそもがインスタレーション系ばっかりだった。


「作品」そのものが全体的に弱すぎる。
ほぼ、ご丁寧に作家のプロフィールや作風をを交えながら、
制作のプロセスや作品自体の説明が書かれているキャプションがないと、
作品を前にしてもどうしていいかわからないものばかりでした。
まぁ、超有名アーティストが参加しているわけではないので致し方ない部分ではあるけれど。
個人的には、やっぱりキャプションありきの作品はちょっと物足りないなぁと思ってしまう。


参加アーティストは、それぞれがつくりたいものを自分の信念を持ってしっかりとつくってるのはよくわかったものの、やっぱりどうしてちょっと甘っちょろいというか。
好きな作品はあれど、それ自体に衝撃を受けたり感動したりということはありませんでした。
"説明しなければわからない作品"ってずばりそれなんですよね。
私はやっぱりプロセスとかコンセプトとかじゃなくて作品そのものパワーでぶん殴られたい。
だからこそ逆に部屋ひとつまるごと使うようなインスタレーション作品はずるいぞと思ってしまいました(笑)


そういった意味では、「よく探してきたな!」というようなラインナップだったわけですが。


いちばん印象に残ったのは、毒山凡太朗さんの作品。
3.11で故郷の福島が被害を受けたことがきっかけとなり作品をつくりはじめたというひと。
正直、一見、作風は苦手というか、個人的にちょっとなぁと眉をひそめるような感じ。
ただ、他のアーティスト同様にキャプションにいろいろ説明が書かれているにも関わらず、
作品制作に対するスタンスがよくわからないんです。
開き直っているようにも見えるし、けれど一方で皮肉をシニカルに表現することで、
それがとてつもない怒りや悲しみに感じられる部分がある。
だから作品を見て、これはどっちなんだろうかと。
でも、どっちか知りたいのは私だけなのでそれはどうでもよくて、
大事なのは発信者であるアーティストの想いを間違えずに受け止めたいというところで。
だけど、ちょっといまはよくわからない。
でもこういったかたちでこちらの気持ちがざわざわさせられる、
そういった作品に出会えたことはよかったなと思っています。


津田道子さんの作品はキャプションがなくてもおもしろかった唯一の作品だったかも。
『不思議の国のアリス』をモチーフにした作品は、
チェスをモチーフにひとつの空間にモニターや鏡、そしてただのフレームを、
計算しつくして配置することで不思議で楽しい空間をつくりだしていました。
インスタレーション系でも、作品になっている空間に実際に参加できることや、
単純に他人との関わりを生み出すという点でも今回の展覧会では異質だったかなと。


「楽しい」といえば、表現としてのファッションにもアグレッシブに取り組んでいる森永邦彦さん率いる『アンリアレイジ』による東京大学とのコラボ作品、楽しかった!
今回の展覧会はほとんどが撮影OKというイマドキなやつだったんだけれど、
この作品は、ずばりそういう状況をうまく利用しているかのように、
なんと「フラッシュをたいて撮影すると作品(服)が光る」仕組みなの!本当に不思議!
撮影した写真がスマホの画面の中だけで光っているのかと思いきや、そうではなく、
"フラッシュをたいて撮影する"だけで、実際に展示されている服が光る!光り方もすごい!
まったく仕掛けがわからないし、でも我々がふだん使用しているスマホでこんなびっくり体験ができちゃうの、本当にすごい。
もうおもしろ楽しすぎてバッシャバシャ撮りまくってしまった…
この「撮影OK」ルールの展覧会ならではの遊び心よ。
表現も大切だけれど、こういった単純に誰でも楽しめる作品がラインナップのなかにあったのが本当によかったです。


さらにびっくりしたのが、「このひとの展示、見たことある!」という方が!いた!
その名は土屋信子さん。たまたま上野で『宇宙11次元計画』という個展を、
見たことあるんですよ!びっくりした!
そして作風がまったく変わっていないたくましさよ!
(7年前とか時間の流れがこわすぎるしちゃんと作品を覚えてる自分も我ながらすごい…)
このお方、どれくらいの数の作品をつくっているのかわからないけれど、
それなりの点数の作品をそれなりの広さの会場で見てみたいなと思いました。好きです。




話は冒頭に戻り、私もドルヲタに戻りますけれども。


ミニョンくんと同じものを見てる!っていうだけで、
ミニョンくんこれを見たのか!って考えるだけで、めっちゃくちゃ最高に楽しかったです!
『猫オリンピック』(作品名です)の猫がミニョンくんに見えてくるんだよ…!
いやあれミニョンくんでしょ。


いやいやそれにしてもファンミニョンよ、聞きたいことがやまほどあるぞ。



ミニョンくん!!!!!!
アンドロイド社長、どうでしたか!!!!!!!!!



もう本人不在のイベント、というかVライブとかでいいんで、
アンドロイド社長の作品を見たミニョンくんの話が聞きたい、2時間くらい聞きたい。
まじでミニョンくんアンドロイド社長どうでしたか。スケべでほんとすまんね!


展示というよりは、「ミニョンくんの見た世界を見る」というのが目的だったとはいえ、
それのおかげでとくに目当ての作家さんがいるわけでもない展覧会が、
ふだんより100000倍くらい楽しめました。


それってやっぱり今回の展覧会が「撮影OK」というのが大きくて。
ミニョンくんが"カメラを向けて写真を撮った"ものを、
私も同じように"カメラを向けて写真を撮った"という追体験よ。
ミニョンくんは時間を共有する相手がいなかったのが残念だったとインタビューで言っていた*1けれど、ミニョンくんがこうしてインスタグラムに記録を残してくれたからこそ、
私はミニョンくんとあたかも時間を共有できたかのような不思議な気持ちになりました。
そして、やっぱりそれってすごく嬉しいし、楽しい。




ついでに展望台でやってるピクサーの展示もざっと見てきたけど、
展覧会の「展示」を見た直後だとワークショップ的な趣向のイベントに頭を切り替えるのは無理だってなっていうのを実感。
鑑賞と創作のスイッチは同時に入らないことを学びました。


でも展望台に何げなく寄れちゃうのもよかったし、
なにより森美術館は基本的に火曜日以外は夜22時までやってるしで、
そういうところも含めて、とてものんびりと、リラックスした時間を過ごせました。




ミニョンくん楽しかったよ、ありがとね!
ミニョンくん自身が、見て感じたそのときの感情をファンと共有したいと思って、
今回の展示の写真もSNSにたくさんアップしたというその気持ちが、本当に嬉しいです。


*1:'19.03 “ELLE” 4月号 ミニョン インタビュー 日本語訳 - ザッピング
yuさんが雑誌『ELLE KOREA』でミニョンくんがこの展覧会に訪れたときの日本でのひとり旅についてもがっつり語っている単独インタビューをとても素敵に訳してくださっています。必見。

進撃の巨人 Season3 Part.2 53話「完全試合(パーフェクトゲーム)」


「お前はどうするつもりだ?」



「俺は獣の相手だ。ヤツを引き付けて…」



「無理だ。近づくことすらできない。」



「だろうな。だが、お前とエレンが生きて帰れば、まだ望みはある。」
「すでに状況はそういう段階にあると思わないか?」
「大敗北だ。」
「正直言って、俺はもう誰も生きて帰れないとすら思っている。」



「ああ。反撃の手立てが何も無ければな。」



「…あるのか?」



「ああ。」



「なぜそれをすぐに言わない?」
「なぜクソみたいなツラして黙っている?」



「この作戦が上手くいけば、お前は、獣を仕留めることができるかもしれない。」
「ここにいる新兵と、私の命を捧げればな。」
「そのためには、あの若者たちに死んでくれと、
 一流の詐欺師のように、体のいい方便を並べなくてはならない。」
「私が先頭を走らなければ、誰も続く者はいないだろう。そして私は真っ先に死ぬ。」
「地下室に何があるのか、知ることもなくな。」



「はぁ?」



「はぁ…」
「俺は、このまま地下室に行きたい。俺がいままでやってこれたのも、
 いつかこんな日がくると思ってたからだ。」
「いつか、答え合わせがせきるはずだと。
 そして今、手を伸ばせば届くところに答えがある…!」
「すぐそこにあるんだ…」
「だがリヴァイ。見えるか、俺たちの仲間が。」
「仲間たちは俺らを見ている。捧げた心臓がどうなったか知りたいんだ。
 まだ戦いは終わってないからな。」
「すべては俺の頭の中の、子供じみた妄想に過ぎないのか?」




「…お前はよく戦った。」
「おかげで俺たちはここまでたどり着くことができた。」

「俺は選ぶぞ。」



「夢を諦めて死んでくれ。新兵たちを地獄に導け。」



「獣の巨人は、俺が仕留める。」






oh…


いや、すごくないですか、このセリフ。
リヴァイのセリフもすごいんですけど、そこに至るまでのこのセリフの応酬。


というか、最後のリヴァイのセリフだけでも本当にすごいんですよ。
でも、あのセリフを言わせたのはエルヴィンなんですよ。
何度でも言う、あのセリフを言わせたのは、エルヴィンなんですよ。
もう、それだけで……






えっと、つらすぎるんですが。
リヴァイかっこいいとか言ってる場合じゃない。言ってるけど。
見終わって、もはやおもしろかったとかそんなことを思う余地もないような、
ただただ悲しいだけの時間よ…つらい…


虫食いで原作を読んでいて、ちょっと前に見た原作(だいぶ前のマガジンだけど)では、
違う漫画かなレベルに想像もつかないような物語が繰り広げられていたのですが、
そこまでの間に、まさかこんなことになっていたとは…


情熱大陸』で諌山さん、もうすぐ終わるって言ってたよな。
いまの状況からしてどんなエンドなら悲しくないんだろ。
公式ってのが正解の世界っていうのは…それこそ残酷である。




アニメ『進撃の巨人 Season3』、まさかパートが分かれているシステムとは知らず、
あまりにも突然『Part.1』が終わったときはびっくりしてひっくりかえったんですけど、
いざ『Part.2』が始まっても初回はいまいちノりきれなくてちょっと戸惑っていました。


でも相変わらず作品のパワーがキョーレツで、
テレビのなかで繰り広げられる圧倒的な映像は、そういった違和感を払拭し、没頭させる。
まじで毎回、体感5分で終わる。




本当に、必ず毎週「1話」という時間のなかで、驚くほど物語が動くのがすごすぎる。
私みたいなライトファンでさえも、いろいろわけわかんないところもありつつ~なのに必ず、絶対に、おもしろい。


そしてなにより、アニメーションそのものがハンパないし、声優陣もハンパないし。
『Season3』からその使命を請け負ったNHKの意地とプライドもハンパない。



やっぱりアニメになると立体起動戦闘のかっこよさがとんでもない。
というか、リヴァイがはっちゃめちゃにかっこいいんです…
諌山さんの画では…私はだめなんだ…本当にそこは申し訳ないと思っている…


あと今シーズン、主題歌にリンホラ氏とシネマスタッフ氏が揃ってカムバックなさって、
そのオープニングもエンディングもまるでこれまでの集大成のようでで泣けてしょうがない、
という一方で、まさかアニメシリーズ終わっちゃう!?的な不安が無くはなかったり。


もうほんと、いろいろたまんないっすよ。
コレのおかげで、日曜日の夜は憂鬱で~とか、それどころではないんです。

ドラマ「腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。」第5話、私もつらかったんですけど。

このドラマの存在は知っていた、程度で。
NHKのよるドラ『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』を初めて見た。
初回から視聴していたわけではなく、突発的に第5話を見ることになったのだけれど。
だから、これまでの話とか話の流れとかはまったくわかっていない。


腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』、タイトルからしておもしろそうですよね。
とか、最近は世の中がLGBTに敏感すぎて、そんなことも軽々しく言えない雰囲気。
「おもしろそう」と思うこと自体を責められそうなそんな雰囲気。
それこそ差別なのでは…とか、ひとによってそういった部分もまばら。
でも、それ自体について「考える」とか「感じる」とか、
ひとりひとりがひとりの人間をひとりの人間として認め合うというきっかけになるのなら…


とか思ったりしていたんですけど。


そうやってなんだかんだ高みの見物をキメていた私、
昨日見た『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』第5話、つらかった。




メインの登場人物は高校生である。まだ子供だ。
でも、今回そういうところはちょっと置いておきたい。
あと、ドラマの感想とかではない。


第5話、ドラマ自体は「学校の教室」という村で最悪のかたちで終わった。
なので、主人公・純に寄り添いたいところだけれど、そこもちょっと置いておきたい。




自分の彼氏が知らない男のひととキスをしていてショックを受けたら、
彼から「好きなんでしょ、ホモ。」と言われてしまうのよ…
これ前回(第4話)のおさらい的な場面でたった数秒の映像だったんだけれど、
それだけでも、なんだかものすごく傷ついてしまった。私が。
それが、彼から咄嗟に出たいっぱいいっぱいのことばだったっていうのはわかってるつもりです。


本編(第5話)でも、勃ったとか勃たなかったとか言ってたけど、
それは非マイノリティである男女のカップルでもあることだしってんで、
それよりも、「好きなんでしょ、ホモ。」と言われてしまったそのショックよ。


言われた女の子は「腐女子」である。
言った男の子は「ゲイ」である。


また、ゲイの男の子・純は、腐女子の女の子・紗枝に、「普通の幸せが欲しい」と言う。
そこで純が紗枝に語る「幸せ」には、紗枝の姿が見当たらないのだ。
わかりやすく挙げられていた「子供が欲しい」という点において、
そこに至る過程で求められていたのは、「紗枝」ではなく、
"紗枝なら勃つかもしれない"という期待だった。


「ゲイ」とカテゴライズされている純は、紗枝を「腐女子」とカテゴライズしている。
純にとって紗枝は紗枝ではなくて、「腐女子」なのだ。


純の求める、描く、「普通の幸せ」に「紗枝」という人間は、いないのではないか。
いまのところ純は紗枝に対して好意はしっかりとあるのだけれど、
それは紗枝が「腐女子」であるということがなによりも大きいのではないか。


それがすごく悲しかった。




最近どうやら私は"「カテゴライズ」される"ということが、
めちゃくちゃ苦痛だということに気がついてしまっていた。


私は「私」です。
でも、私以外のひとは私のことをカテゴライズしていることは知っている。
だって私も自分以外のひとのことをカテゴライズしてるもの。
でもこれはまぁ私の話なので…




この前の年度末、仕事がめちゃくちゃ忙しかったときに、
あることがきっかけで上司から「社会人として」と言われ、あることを指摘された。
経緯から察するに、そのことばを向けられていたのは「私」に対してではなく、
「社会人」というカテゴリーに属している私に対してであった。


私は社会人である自覚も自負もある。
でもそのときに上司から言われた「社会人」ということばからは、
「私」というものの存在がなかった。ように感じられた。
きっとそんなことは世の中にはたくさんありふれてるくらいありふれてるんだけれど、
心身共に疲弊していたそのときに、上司が声をかけたのは「私」ではなく「社会人」の私なんだと感じたことが、自分でもびっくりするくらいショックだった。


話は変わって。


SNSの時代になって、ひととひととの出会いというものの幅はすごく広がったと思う。
SNSがなければ出会わなかったひとたちは、たくさんたくさんいると思う。
実際に私にも出会いがあるし、大人になってからお酒や習い事などを通さずに、
自然体の自分のままでひとと出会える・友達ができるっていうのはすごいことだと思う。


けれど、SNSの普及が進むにつれ、
そちらでは逆になにかにカテゴライズされないと「私」がそこに存在できないような息苦しさがあるように感じられてきた。
ただたんに私がSNS社会に適応できていないというだけの話でもあるのだけれど。


SNSという場所に、ひとがどんどん増えていくにつれ、
カテゴライズされたくない「私」がどんどん埋没していくような感覚がある。




だからこそ、好きな人に「腐女子」とカテゴライズされていた紗枝のつらさが胸に迫った。


私はゲイをわかっていない。
10代のときに男友達にカミングアウトされたときも、わからないものだから、
どう振舞えばいいのかもわからず、私は過剰に驚いてみせた。
実際にはそんなに驚いていなかったけれど、子供なりにゲイという知らない世界に興味があるのにそこでリアクションしないほうが不自然だという判断に至ったからだ。
でも、よくよく思うと、"ゲイがわからない"というより、自分以外の人間のことなんてそもそもわからない。
だからこそよりドラマにショックを受けたのだ。


カテゴライズされて「記号」として見られている自分も、
カテゴライズされて「記号」として存在しなければならない自分も、
そのどちらも嫌なのに、てんで予想外のところから、
それ、いまのあなたですよと言われたような気がしたのだ。




そんなタイミングでバズっていたのが氷川きよしだった。

氷川きよしが演歌に出会う前、ビジュアル系が好きだったことは私のなかでは有名であった。
ロキノン系雑誌によくある畑違いの著名人のインタビューコーナーでがっつり語っていたのが印象的だった。


だから今回のきよしの動画が流れてきたとき、
彼はようやく自分のやりたいことをできるようになったんだなぁとか思っていた矢先だった。




そんなこんなだけど、ドラマの続き、楽しみです。

ゴッズ・オウン・カントリー

「男性同士のラブストーリー」を観に来たつもりだったのに、
ぜんぜん違うところでめちゃくちゃ刺さってしまった。人生。



人生は美しいけどつらい。
人生はつらいけど美しい。



ぜんぜん美しくなかったの。
ラストだって、きっとハッピーエンドなんだろうけど、
憂鬱なトーンの画は終始さみしくてつめたくて。


あの雄大な景色は確かに美しいかもしれないけれど、
私にとってのあの景色は、"自分では太刀打ちできない圧倒的な力というものがある"、
ということへの絶望に直結してしまったから。


でもだからこそふたりのいる世界は美しいし、
ふたりが見ているものは美しいんだなっていうのを突き付けられた気がして、
その私が自分自身では見ることのできない、想像するしかできない美しい光みたいなものの存在が、より自分のなかで「美しい」ものになっていった。
美しいものは見ていないはずなのに、さも美しいものを見たかのようなその錯覚は、
ひとつの体験としていまの私にものすごく沁みた。




そしてすごく静かな映画だった。
だから自然の「音」が響き渡って、そして空に消えていく。


登場人物たちはことばより表情でしゃべる。
それらはとても雄弁だった。




『君の名前で僕を呼んで』(CMBYN)みたいに、
自分のなかの腐女子にズッキューンしたみたいなのはいっさいなかった。


本作で描かれていたのはCMBYNで描かれていたのような、
華やかで綺麗でまぶしくてたまらないというようなものではなかったから。
サングラスなんてしようもんなら視界が真っ暗になっちゃうようなどんよりとした閉塞感は、
人生とか生活とか仕事の厳しさやつらさから、目を背けることを許してはくれなかった。


でもなんだろ…あの出会って何秒的なからだの求め合い方って、
男女のラブストーリーにはあんまりないし、あってもなんだかなぁだし。
でも私はあれが好きなんですよ。
同性同士で描かれるラブストーリーって、あれが何よりいいって思う。


この映画でも、発情期もびっくりのハンパないエンジンのかかり方にはびっくりしたし、
「そのタイミングなんだ!?」ってめっちゃびっくりしたけど、
それこそそれってひとそれぞれだしなぁと。
ただたんに人肌が恋しいだけとかならぜんぜん不思議じゃないもんな。わかるもんな。


でも~~~!マイノリティと言われるゲイの主人公のほうがその場だけとはいえ、
私なんかより出会いが多すぎではというところはまじかよ!ってなった(まがお)
しかもSNSのない世界で!そしてしゅんとしてしまった。




で、いちばん自分でもびっくりしたのが、
しょっぱな、牧場で牛の世話してる様子が映っただけで涙がだばだば流れてきて。


もちろん人生って辛いよねって主人公の肩をたたきたくなる気持ちも大きいけれど、
そういった共感よりも先に"「牧場」という場所で働くこと"へのとてつもない衝撃があった。


牧場のシーンはもうずっと涙涙で。
日々ああやって言葉の通じない命(動物)と向き合って、
…というか「向き合う」っていうと綺麗事になっちゃうレベルの、
"それらの命で生活をする"ひとたちというのをまざまざと見せられて、
それがあまりにもいままで見てきた世界ではなくて、あまりにもショッキングだった。


映されているのは「尊い命」の瞬間には変わりないのだけれど、
その「尊い命」が生活に直結するひとたちの人生、生活。仕事。
そこには草、土、泥は当たり前にあるし、糞、体液、そして血、死がある。


死んで生まれてきた羊の赤ちゃんの毛を剥いで、
生きて生まれてきた羊の赤ちゃんに着せてあげる。
そういう世界を私は知らなかった。


あの一連の牧場の映し方、日本のエンターテイメントではまずないと思う。
正直、キツイなと思わなかったかといえばうそになる。
けれど、そこにある無骨な男ふたりのラブストーリーがあったからこそ、
ああいった家畜としての動物の命が映画に存在したのかもしれないとも思う。




本当にいい映画でした。


わたくし、いまだ平成でログアウトしたまま、令和にログインができておりません。
自分という人間のひとつのピースのような存在だったある喫茶店との別れのダメージがあまりに大きくて。


でも、映画ってすごいですね、すこしだけ元気が出た。
エンターテイメントの力、まだまだ信じたい。