このドラマの存在は知っていた、程度で。
NHKのよるドラ『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』を初めて見た。
初回から視聴していたわけではなく、突発的に第5話を見ることになったのだけれど。
だから、これまでの話とか話の流れとかはまったくわかっていない。
『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』、タイトルからしておもしろそうですよね。
とか、最近は世の中がLGBTに敏感すぎて、そんなことも軽々しく言えない雰囲気。
「おもしろそう」と思うこと自体を責められそうなそんな雰囲気。
それこそ差別なのでは…とか、ひとによってそういった部分もまばら。
でも、それ自体について「考える」とか「感じる」とか、
ひとりひとりがひとりの人間をひとりの人間として認め合うというきっかけになるのなら…
とか思ったりしていたんですけど。
そうやってなんだかんだ高みの見物をキメていた私、
昨日見た『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』第5話、つらかった。
メインの登場人物は高校生である。まだ子供だ。
でも、今回そういうところはちょっと置いておきたい。
あと、ドラマの感想とかではない。
第5話、ドラマ自体は「学校の教室」という村で最悪のかたちで終わった。
なので、主人公・純に寄り添いたいところだけれど、そこもちょっと置いておきたい。
自分の彼氏が知らない男のひととキスをしていてショックを受けたら、
彼から「好きなんでしょ、ホモ。」と言われてしまうのよ…
これ前回(第4話)のおさらい的な場面でたった数秒の映像だったんだけれど、
それだけでも、なんだかものすごく傷ついてしまった。私が。
それが、彼から咄嗟に出たいっぱいいっぱいのことばだったっていうのはわかってるつもりです。
本編(第5話)でも、勃ったとか勃たなかったとか言ってたけど、
それは非マイノリティである男女のカップルでもあることだしってんで、
それよりも、「好きなんでしょ、ホモ。」と言われてしまったそのショックよ。
言われた女の子は「腐女子」である。
言った男の子は「ゲイ」である。
また、ゲイの男の子・純は、腐女子の女の子・紗枝に、「普通の幸せが欲しい」と言う。
そこで純が紗枝に語る「幸せ」には、紗枝の姿が見当たらないのだ。
わかりやすく挙げられていた「子供が欲しい」という点において、
そこに至る過程で求められていたのは、「紗枝」ではなく、
"紗枝なら勃つかもしれない"という期待だった。
「ゲイ」とカテゴライズされている純は、紗枝を「腐女子」とカテゴライズしている。
純にとって紗枝は紗枝ではなくて、「腐女子」なのだ。
純の求める、描く、「普通の幸せ」に「紗枝」という人間は、いないのではないか。
いまのところ純は紗枝に対して好意はしっかりとあるのだけれど、
それは紗枝が「腐女子」であるということがなによりも大きいのではないか。
それがすごく悲しかった。
最近どうやら私は"「カテゴライズ」される"ということが、
めちゃくちゃ苦痛だということに気がついてしまっていた。
私は「私」です。
でも、私以外のひとは私のことをカテゴライズしていることは知っている。
だって私も自分以外のひとのことをカテゴライズしてるもの。
でもこれはまぁ私の話なので…
この前の年度末、仕事がめちゃくちゃ忙しかったときに、
あることがきっかけで上司から「社会人として」と言われ、あることを指摘された。
経緯から察するに、そのことばを向けられていたのは「私」に対してではなく、
「社会人」というカテゴリーに属している私に対してであった。
私は社会人である自覚も自負もある。
でもそのときに上司から言われた「社会人」ということばからは、
「私」というものの存在がなかった。ように感じられた。
きっとそんなことは世の中にはたくさんありふれてるくらいありふれてるんだけれど、
心身共に疲弊していたそのときに、上司が声をかけたのは「私」ではなく「社会人」の私なんだと感じたことが、自分でもびっくりするくらいショックだった。
話は変わって。
SNSの時代になって、ひととひととの出会いというものの幅はすごく広がったと思う。
SNSがなければ出会わなかったひとたちは、たくさんたくさんいると思う。
実際に私にも出会いがあるし、大人になってからお酒や習い事などを通さずに、
自然体の自分のままでひとと出会える・友達ができるっていうのはすごいことだと思う。
けれど、SNSの普及が進むにつれ、
そちらでは逆になにかにカテゴライズされないと「私」がそこに存在できないような息苦しさがあるように感じられてきた。
ただたんに私がSNS社会に適応できていないというだけの話でもあるのだけれど。
SNSという場所に、ひとがどんどん増えていくにつれ、
カテゴライズされたくない「私」がどんどん埋没していくような感覚がある。
だからこそ、好きな人に「腐女子」とカテゴライズされていた紗枝のつらさが胸に迫った。
私はゲイをわかっていない。
10代のときに男友達にカミングアウトされたときも、わからないものだから、
どう振舞えばいいのかもわからず、私は過剰に驚いてみせた。
実際にはそんなに驚いていなかったけれど、子供なりにゲイという知らない世界に興味があるのにそこでリアクションしないほうが不自然だという判断に至ったからだ。
でも、よくよく思うと、"ゲイがわからない"というより、自分以外の人間のことなんてそもそもわからない。
だからこそよりドラマにショックを受けたのだ。
カテゴライズされて「記号」として見られている自分も、
カテゴライズされて「記号」として存在しなければならない自分も、
そのどちらも嫌なのに、てんで予想外のところから、
それ、いまのあなたですよと言われたような気がしたのだ。
そんなタイミングでバズっていたのが氷川きよしだった。
氷川きよしが演歌に出会う前、ビジュアル系が好きだったことは私のなかでは有名であった。
ロキノン系雑誌によくある畑違いの著名人のインタビューコーナーでがっつり語っていたのが印象的だった。
だから今回のきよしの動画が流れてきたとき、
彼はようやく自分のやりたいことをできるようになったんだなぁとか思っていた矢先だった。
そんなこんなだけど、ドラマの続き、楽しみです。