縁と縁が繋がって鑑賞に至りました。
観ることができて本当によかった。
公式サイトに記されているストーリーは、「説明」にすぎない。
作品は「説明」を超えてどっしりと腰を据えていた。
ものすごく静かだけれど、ものすごく熱を帯びていた。
そして、鋭く突き刺さる。
観る前、「こんな映画だろうな~」っていう程度の想像はしていました。
キャッチーな対象、お涙ちょうだい。
でも、違った。
そんなチンケな予想は目の当たりにする、むきだしの「老い」にあっさりと覆される。
キャッチコピーである、
心は山にありました。
に、煽られすぎていたせいか、鑑賞直後は、やや物足りなく感じた。
けれど時間が経つにつれ、そんな野暮な自分が恥ずかしくなってくる。
大切なものは、しっかりと映ってたじゃないか。見たじゃないか。
描かれていたのはひとの「人生」だった。
「ふたり」だけの物語ではない。「家族」の物語だった。
そして、そこには、たしかに「山」があった。
山は当たり前にあった。
どのひとの人生にも必ず通ずることを淡々と映していました。
スクリーンから伝わる「老い」を自分の人生のなかにある「老い」に重ねた。
「特別」だったはずのじいちゃんもばあちゃんも例外なく「老い」ていった。
「特別」じゃなかった。
ドキュメンタリーとして容赦なく映し出される「老い」。
その「老い」は、「主人公」の存在がゆるやかに移ろうことで輪郭がはっきりしていった。
娘夫婦の姿がまるでじいちゃん・ばあちゃんの姿に重なる様子は、「桃源郷」の「桃源郷」たるところだった。
ハンサムな寅夫じいちゃん。かわいいフサコばあちゃん。
電気も水道もない山で暮らすふたりは、ふたり自身がとっても魅力的だった。
山に響くばあちゃんの甲高い声が耳に残っている。
そんなふたりが「老い」によって表情がなくなっていく・目に光がなくなっていく姿には胸が痛んだ。
でもきっと、そのさなかのふたりは不幸ではなかったはず。
自然に時に身を任せているだけのようにも感じられた。
"ふたりのために"と、ふたりの娘を中心とした家族が動き出す。
そんな様子は決して他人事ではなかった。
"「ふたり」の桃源郷"は、"「わたし」の桃源郷"でもあった。
泣いた、泣いた。最初から最後までずっと泣いてた。
この作品との出会いから、いま、こうして拙い想いを綴っている最中まで、
すべて縁が繋げてくれた。
本当に、本当に、ありがとうございました。