映画を観る前に、5年以上使用しているiPhoneのバッテリーの交換を頼んだんです。
映画館が入っている商業ビルの一階の修理屋さんで。
映画を観終わって、中に入っていたバッテリーが変わったであろうiPhoneと再会した。
ケースも装着してないし、店員さんが綺麗にしてくれていたこともあって、
たった2時間手元から離れていただけで、まるで自分のiPhoneじゃないみたいで。
だから、どうしてももともと中に入っていたバッテリーが見たかった。
というか、持って帰りたかった。
5年以上も一緒にいたものを簡単に手放すことができないんですよ。
たとえそれがゴミみたいなものでも。
でも、それはお店のルール上、渡せないと言われてしまった。
私はこれまで惜しみつつ手放したものと同様に、
「じゃあ最後に写真を撮ってもいいですか?」と訊いて、
それが実際に本当にこのiPhoneの中に入っていたかもわからない取り出されたバッテリーを、
返却されたiPhoneで数枚撮った。
一連のそのバッテリーへの執着を店員さんは不思議そうに見ていた。
店員さん、佐奈宏紀くんに似ててカッコよかったんだけどな。
そういうことだ。
私のそういうところを一瞬でもわかってくれるひとは、
もちろん積極的に探したわけでもないのでいまのところ見つかっていない。
でも映画のなかの寧子(やすこ)も津奈木も出会えているんだよね、探すまでもなく。
だって、作品だから。作られた世界だから。正解があるから。
綺麗だったよ、美しい映画だった。
ことばにできない、かたちにできない、けれど沁みる、魂のラブストーリーだった。
あんな映像のなかに存在してみたいよ。
私はそっちにいけなかったんだよ。
そういうのをエンターテイメント作品とかそういうのじゃなくても、
なんでもいいけど自分の都合にいいように昇華できなかったんだよ。
私は"スマホのバッテリーとの別れを惜しむ「私」"とは別れられないんだよ。
それに気づいたのは映画を観たからではなくて、映画を観る前から知っていた。
だから、観ないつもりでいた。
そういうのをあらためて突きつけられるのはわかっていたから。
数ヶ月前、最寄りの大型シネコンで本作を上映していたときは、
そりゃあもうあの予告ですから、ずっとずっと気になっていたけれども、やりすごした。
でもこのタイミングで、iPhoneのバッテリー交換がしたくて、
その修理屋さんの入ってるビルのなかにある劇場で上映中で。
改めてiPhoneを修理に出す直前に映画の予告を観てみたら、
なんだか大丈夫な気がしたんだよ。
寧子を演じた趣里ちゃん、放っておけない子どものようなあどけなさと少女のような危うさ、
そしてふいに見せる艶やかさで寧子の魅力を爆発させていた。まぎれもない主人公だった。
菅田将暉(津奈木)の演技は相変わらずめちゃくちゃにえぐい。すごすぎてこわい。
寧子と津奈木が"ほんの一瞬でも分かり合えている"のに対して、仲里依紗、本当に不憫や…!
でもいい仕事してたで仲里依紗、ありがとな!
田中哲二さんの懐の広さといい完璧な布陣だった。総じてすごい攻撃力だった。
で、このザマである。
でも、あんまり傷ついてないし、私ももう少し楽チンに生きよって元気も出たりしてて。
むしろずっと本作を見て見ぬふりをしていただけあって、スッキリした部分が大きいかも。
それはあのiPhoneの修理屋さんのお兄さんにちょっと戸惑われてもとくに傷つくこともなく、
お兄さんに「お世話になりました!よろしくお願いします!」とちゃんと言えたからかな。
無論、私は寧子ではないからだ。
お兄さんがそれに対してちょっと恐縮したような姿を見て、安心したのかもしれない。
私は寧子でもないし、本谷有希子ではない。
私は寧子にはなれないし、本谷有希子にもなれない。
"私は「私」でしかない"ということを別れざるをえなかったバッテリーが教えてくれた。
ここにたどり着くのもライフハックでしょ?私は生きるぞ。