ミーハーでごめんね

ミーハーでごめんね

I AM LOWBROW, AND I'M SORRY.

ミッドナイトスワン(と、映画館に行けない私。)

海辺のシーンのための2時間だった。


あとはそこまでに導くためのパズルのような映画だった。
すべてが「仕組まれている」という違和感がずっとつきまとっていた。


凪沙(草彅剛)も一果(服部樹咲)もそこにいるのに、
そのパズルの絵柄に閉じ込められているようで、そんな様子に悲しくなってしまった。
彼女たちはスクリーンの中ですら存在をがんじがらめにされている。
見ていてしんどかった。




だからこそ、本作を内田英治監督が「娯楽映画」だと言ったことに強い拒否感がある。
いくら(たぶん)カッコつけたかったからって、2020年にこれを娯楽映画だということばにしてしまうのはあまりにも脇が甘すぎる。
映画というひとつの作品がこうしてあるにも関わらず、
自らの作品に泥を塗るような行為は理解しがたい。本当にカッコつけたいだけだったとしたら余計に。


そういう、いち個人の言葉というものがすごく力を持つ2020年。


はじめ、本作は観るつもりがなかった。
やれ「『全裸監督』の監督」だのやれ「娯楽作品」発言などで興味はあるけれど、
私が目にした数々の「反応」を見かけるにつけ観る気は削がれた。
そういった「反応」が意図せず目に入る、そういう状態であった。
なんならネタバレまで見て、あーーーー…みたいな。
けれど一転、この映画に救われたというある方の感想を拝読して、
やっぱり自分の目で見ないことにはなにもわからないはず、と思い鑑賞に至った。
その方は「これが現在の日本だ」と綴っていた。
ここまでにいったい何人のヒトの言葉に触れただろうか。


そういう、作品以前に作品と対峙するにあたって人目が気になる2020年。


私はこの作品を「正しく」観ることができるだろうか。
私はこの作品の感想を「正しく」抱くことができるだろうか。
なにかを見て自分がなにを思うのかが不安だった。
感想なんてひとそれぞれだし、自分の感想を大切にすればいいと思うけれど、
いまはなんかそういう風に思うのが無理。
いまは自分で自分の反応ですらを気にしてしまうようなそんな時期。
たとえばいま、なにかにつけてノイズしか聴こえてこない、みたいなことがありすぎてあれっていったいなんなんだろう。
いまの私にはそれをはねのけて自分の目で見る自信がない。
そんなこんなでただでさえ映画を含む芸術に対して触れる余裕がなくなっているけれど、
今日はたまたま天気も良くて、気分も良くて久しぶりに映画を観に行こうと思った。
そして選んだのが『ミッドナイトスワン』だった。


なんというか、やっぱり作品というものを実際に観れば「正しく」しなければ、なんていう鎧はあっという間に剥がれてしまう。
誰かがつくった作品というものはこちらの想像を超えて伝わってくるものがあるんだなと実感できた気がして嬉しかったし、
作品は好きになれなかったけれど、そういった意味で『ミッドナイトスワン』という映画は私自身はとても「伝わってきた」作品だった。


それでもエンドロールのあとにあの映像を映し出すセンスとかはぜんぜんよくわかりませんけどね。




もちろん綺麗なシーンはたくさんあったけれど、
個人的にはこの15分予告という名の無料公開中の映像作品のほうが綺麗だと思った。



内容は上映作品を「10割」というならこれは「7割」くらい。
そしてこの編集を見てしまうと本編がガタガタしているように感じる。
本編はわりと大味なんだよな。ぽこぽこと空白が目立つというか。
というか、完全に劇場では観ない気でいたので、
この予告を鑑賞前に観てしまったからこそ上映作品がかすんで見えてしまった気がしなくもない。(でも貼る)




"凪沙さん"のことも好きだけれど、


改めて私は"『女子的生活』のみき"が大好きだと思った。