それはそれはもう、完・璧。
楽曲・ビジュアル・振り付け、そしてなによりパフォーマンスなどなど、
あらゆる面でハイクオリティを保ちつつそれぞれがガッチリと繋がっている様から親和性の高さが垣間見える。
トータルでディレクションが素晴らしい活動でございました。
音楽と結婚するって?目も鼻も口もいらないって?生首でもいいって?
超コンセプトへの体現から生まれるのは「無個性」。
「無」というのはネガティブな意味ではなく、本来持つ「個性」をどのようにでも変容できるという、「超余裕」なのだ。
その完成度の高い一連のカムバックからは、
しつらえられたものからこぼれ出るはずの"「アイドル」たる力"=「アイドル力」が感じられない。
そのくらい密なのだ。
SHINeeの場合のそれは「アイドル力」、というよりはもうそれとはまったく別物の「SHINee力」(なんだそりゃ)というべきなのかもしれない。
(オマージュ云々のハナシはひとまず置いておいて)アクの強いコンセプトをしっかりと消化して、
どんなコンセプトも彼らのオリジナルのエンターテイメントとして成り立たせてしまう「SHINee力」。
まさに「さすがSHINee!」、なのです。
ところが。
私はそれらを「かわいい」とか「かっこいい」とか、もうそういう風に思えなくなってしまっている。
湧いてくる「SHINee力」はあまりにも完璧でプロフェッショナルなのだ。
メンバーたちがわいわい仲良くしている様子すら思い浮かべるのが難しい。重症。
気がついたら『SHINee』とはそのくらい私のなかでは成熟しきったコンテンツになっていた。
嗜むほどの「隙」は、もう寸分もないと感じる。
彼らはれっきとした「コンテンポラリー・バンド」となっていたのだ。
私はそう感じた。
それらからは「アイドル」というより彼らのひとりの「人間」としての存在感を痛感する。
友達関係の延長なんかでは決してない、「仕事仲間」の彼ら。
その"生々しさ"は、憎きミュージックビデオをはじめとする『View』の活動から芽生えていたのかもしれない。
『View』はメンバーが自ら活動曲に選んだそうだ。
そうして超絶曲(なんだそりゃ)『Everybody』以降のシンボルを打ち立てたことは大きい。
というか、どうやら(個人的には)それを転換期とし、これまでほかのアイドルと同様に接していた彼らに私はそうできなくなってしまった。
そういう意味でもとても影響力のあるものだった。
それを「さみしい」とも思わない。
なんというか、もうすでに「なつかしい」という感情が生まれる。
そのくらい彼らは遠くへ行ってしまった。
「アイドル」というには洗練されすぎた彼らたちを、私はこれからどうやって眺めるのか。
とはいえ、(個人的に声高らかにしている)「さすがSHINee!」というスローガンはまだまだ健在のように思う。
きっと、彼らはどんどんストロングな立ち位置になっていくのだろう。
それが「SHINee力」の説得力だ。
2015年夏、新しい"SHINeeらしさ"が(たぶん)生まれた。
さて、つぎのステップではどんな姿を見せてくれるのだろう。