ミーハーでごめんね

ミーハーでごめんね

I AM LOWBROW, AND I'M SORRY.

K-POPよ、生き急ぐな。

と、切に願う。




数ヶ月前。
私が好き、というより「ファン」であるK-POPボーイズアイドルグループのメンバーひとりの熱愛スキャンダルがスクープされた。
正直、そのメンバーに対しては心底ムカついた。
そしていまでもほんのりと「許せない」、と、思っている。


それはなんでだろう、とずっとつっかかっていた。
たかがアイドル、しかも自分が特別気に入っていたわけでもないメンバーなのに嫌悪感が拭えない。
けれど最近、正解に近いような答えのようなものが見つかった。


それは"アイドルは何かを「犠牲」にすべき"っていう歪んだ感覚ゆえだ。
その代表的なものが「恋愛」である。すくなくとも私のなかではそうだったのだろう。


熱愛報道の直前には別のメンバーの脱退騒動があった。
それらのマイナス面が露呈されるまで、そのグループは私のなかで完璧な「アイドル」グループだった。


たくさんたくさん愛される「アイドル」。
そんな煌びやかな彼らがなにかを犠牲にしていることを垣間見ることで、
なにかとモヤモヤすることの多い、「K-POP」の"「K」の国"の文化にサイフを開く自分を知らずのうちに納得させていたんだと思う。


我ながら、ゆ、ゆがんでる……


そんな異国のアイドルに「幸せになってほしい」、だなんて、
本当に心から「アイドル」として好きだったらきっと言えないのかもしれない。私は彼らたちの「ファン」だ。




だからって、その「犠牲」になるものが「命」であっては絶対にならない。




K-POP」は常時激流。
どんどん流れ、溢れてくる、情報、情報、情報。
眺めているつもりが気付いたら飲み込まれていておぼれてしまう。
だからこそ、ふとした瞬間に虚無感に襲われたりもする。


渦中の「アイドル」を取り巻く状況はどんどん過激・過酷になっていっているように感じる。
それの一端は、かの"「K」の国"の性格のせいではないとはいえないと思う。


そんな激流のなかのひとつの点である惨状に対して一寸でも「悲しい」と思うこと、
それを何らかのかたちで表現することは間違ったことじゃないはず。
ただ、そこで生まれた「悲しい」も、飲み込まれてしまうのではと危惧するくらいには、激流は凶暴だ。




K-POP」、おもしろがらせていただいています。
でも、いまはそこに身を置くアイドルを見ると、いつものモヤモヤを通り越して悲しさがうっすらと膜をはる。


また(私が)ノー天気でエラソーに眺められるようになりたい。
いつものモヤモヤはさて置き、(私が)バカみたいに楽しめるコンテンツであってほしい。