誰にも理解されなくてもいい。
私はこの『ジョーカー』という映画を大切にしたい。
たとえば他の誰かが『ジョーカー』を大切な映画だと言っても、私はわからないと思う。
だから私が『ジョーカー』を大切な映画だと言っても、誰もわからないと思う。
だって「わかる」はずがない。
観ていてつらいと思うのに、私はつらくない。
観ていて悲しいと思うのに、私は悲しくない。
高みの見物なんてとてもできない、つらくて悲しい映画のはずなのに、
どうしてだろう、まるで何かが私のそばにいてくれるかのようなあたたかさみたいなものを感じた。
映画として対峙することはできなかったように思う。
私は終始"アーサーの物語"と対峙していて、それは私を映画というものから遠ざけた。
それくらいこの作品は私に入り込んできた。
ホアキン・フェニックスの素晴らしい演技、センスに富んだ映像づくり、音、
こちらに届くそれらすべてが私に"アーサーの物語"と向かい合わせさせる。
でも同調はしない。だから私はジョーカーにはならない。
「なれない」んじゃなくて「ならない」。
私はアーサーを哀れむけれど、映画は私のことを哀れんでいるような気もする。
けれど別にそれが嫌というわけでもない。
私はジョーカーにはならないし、なれない。
一方で、アーサーはジョーカーになった。
それだけのことなのだけれど、それだけじゃない。
私は共鳴してしまっている。
それがなんなのかはわからない。単なるダークヒーローへの憧れかもしれない。
けれどジョーカーはダークヒーローなのだろうかと問いかける自分もそこにはいて、
それに対する私の答えはNOだし、でもYESでもある。
エンドロールがはじまると、びっくりするくらい大勢のひとが席を立った。
私は通路席にいたものだから、すぐ横をスクリーンを去るひとがたくさん通る。
みんな私を追い越していく。
単純に大きなスクリーンだったから、それだけエンドロールで席を立つひとが多いというのは頭ではわかるのだけれど、
それでもみんなどうしてエンドロールを観ないのかと、
スクリーンを眺めながら私だけが『ジョーカー』という作品に取り残されていく。
そんな気分にもなった。
けれど私はそれをさみしいとは思わない。
そのとき聞こえた「俺には難しかったわ」というぼやきが耳にこびりついている。
私は涙が止まらなかったけれど、それがどうという話でもない。