ミーハーでごめんね

ミーハーでごめんね

I AM LOWBROW, AND I'M SORRY.

殺されたのは私の夢だったかもしれない。

女の子の抱く夢が踏みにじられることは本当に本当に許せない。
かつての自分を重ねるからだ。まったく他人事ではない。
私は夢を手放しそうになったことがあるし、そうならざるをえない状況になったことがある。
けれど、ちょっとかたちが変わったかもしれないけれど、
いまは中学生のときから抱いていた夢にほぼほぼたどりついており、その途中にいる。
すでに夢はかなっているのかもしれないけれど、まだまだ完結させたくないから、
「夢の途中」だなんていう自分につかうにはむずがゆい言葉を選んでいる。


ここに至るまでにはあまりにもいろいろなことがありすぎたし、
私なりにいろいろなことを経験してきた。
そんなあまりにハードだった日々にスッと入ってきたのがアイドルだった、
というのがアイドルが好きになったきっかけだった。
社会人ドルヲタデビューにありがちなやつです。


気がついたらAKB48ファン出身のK-POPアイドルファンになっていた。





NGT48の話。


とにかく「アイドルが好きでごめんなさい」という気持ち。
自分のなかにある気持ち悪いなにかをなんとか外に出したいのだけれど、
とてもことばにできなくて、限界まで絞りだしてみてもこれしか出てこない。
何度も何度もぐるぐると考えみても、
やっぱり「アイドルが好きでごめんなさい」というところに行きついてしまうのだ。


私はいわゆるAKB48のブレイクする様子を見守ってきた時代のファンであった。
「国民的アイドル」という称号、握手会商法とはいえ姉妹グループのCDの売り上げも、
48グループに所属する誇らしさを実感するにはじゅうぶんだろう。
なにより当時、他のアイドルと比べて衣装が段違いに可愛かった。
女の子に「アイドルになりたい」と思わせるにはじゅうぶんにわかりやすい魅力があり、
また48ならではのアイドルになりたい女の子を容姿やスキルなどではふるい落とさない、
いい意味での敷居の低さもあったと思う。


そんな、女の子がAKB48になりたいと思うような存在になった理由の一端に、
私がAKB48が好きだと思う気持ちがまったく関係なかったわけではないと思う。
被害妄想ならぬ加害妄想のようなものなのかな。でも妄想ではないと思うんだよな。
私がAKB48を好きだったから彼女たちはAKB48になったのではないか。
そうしてただただ一生懸命に48グループのメンバーとして活動していただけなのに、
命に危険がおよび、こちらの想像を絶する怖くて悲しい思いをし、
いまもまだ私たちの見えないところで苦しんでいるのかと思うと、
やっぱり自分が無関係だとは、とても思えない。


悪いことをしたやつは罰せられてほしい。それは「仕事」をしなかった大人もです。
私は、憶測の域を出ないものに関しては矛先を向けることはできない。
でもそれが本当の声かもしれなくて、それが叫びだったとしたらと思うとやっぱり無視なんてできないんだよ。
それなのに結局なにもできなくて、本当にそういうことも含めて申し訳なさしかない。


結局罰せられるべき「加害者」ですら、いまだにわからないふりをしている。
もしかしたら加害者じゃないかもしれないのに、
加害者としてこれから生きていかなければならないひとがいるかもしれないのだ。
運営は、ひとりの女の子も守れないし、確証なくグレーの烙印を押されたひとたちも含めて、誰ひとりとして守れていない。
恐ろしいことにまだその状態でそのまんま放置されている。
一時期は日本のトップアイドルグループなどと言われていたタレントを擁する企業がいまだにそんな醜態を晒し続けている。


これって絶対におかしいことだと思うのだけれど、
あまりにも組織がまるでおかしいことなんてなにもないかのようにふるまい続けるので、
こちらがおかしいのかと思えてきてしまうくらいなのだ。





カカオトークの話。


1000歩譲ってまだ捜査中であることはちゃんとわかっているけれど、
加害者が誰であろうと、加害者の男たちはもうしんでくれ。
若い女の子たちの夢を殺したんだからしんでくれ。
それでも女の子たちの殺された夢は生き返らないんだからしんでも償うことができない自分のしたことを一生背負ってくれ。


好きなひとを守りたいっていう気持ちはぜんぜんあっていいことだと思うし、
私は誰かが好きなものを好きであるということを否定したくない。
私みたいなのにしんでくれとか言われてるけど、
愛してあげられるファンには愛してあげてほしいと思う。
その愛が余計に加害者を苦しめることになるのならこちらとしたら、
あなたのしてきたことはそういった愛という罰で返ってくるんだよ、と思う。


私は自分が好きなひとが加害者になっても、守りたいとか思ってしまうかもしれない。
でも自分のその思いや気持ちが加害者になった対象をさらに追い詰めることになるなら、
追い詰められればいいと思う。
守りたいと思うかもしれないけれど、罰は受けるべきだと思うから。心中だ。


被害者のなかにこれから芸能界でがんばろうとしていた女の子がいたことが、本当につらい。
あらゆる状況で被害者の気持ちに寄り添うことができない様子に対して、「被害者のことを考えろ」「被害者の気持ちになってみろ」ということばが飛び交うことは多い。
今回は、たとえばもし自分が彼女たちと同じ夢を持っていたのだとしたら、
これはどんなにもひどいことだったことかと…
被害者のことを考えるのでもなく、被害者の気持ちになるのでもなく、
単純にたらればの世界の自分と向き合おうとしてみるだけなのに本当にこれはもう…
この気持ちを形容することばが見つからない。


なんといってもまだまだ男性社会と言われるこの世の中である。
尊敬するひとや憧れるひと、会ってみたいひと、話を聞いてみたいひとが男性であることなどはまったくめずらしいことではない。
私もそういった理由で女性にはもちろん、それよりもたくさんの男性にお世話になってきた。
ただそんななかでもささいなことがこわかった、というようなことは何回かある。
そういった瞬間を、私は運良くかわせてきただけなのかと、いま思う。
たらればの世界は「夢を持つ」私たちにとっては地続きで繋がっているのだ。





私は夢にたどりついたと言っているものの、それでもそれは当初の予定とは違うものだ。
あまりに大変でつらかったために、自分のために、夢のかたちが変化していった。
そのことすら、なかなか受け入れられない自分をだましだまし手なづけていた時期もある。
夢をかなえるどころか、夢を持つことだって大変なことなのだ。
そんな「夢を持つこと」がどういうことなのか。


彼女たちはその夢を殺されてしまったのだ。
想像を絶する、こともできない。想像することすらもできないのだから。
一度殺されてしまった夢は、もう生き返らない。


会ったこともないし話したこともない。
けれど夢は私と彼女たちを繋げる。
けれど彼女たちの過去となってしまった夢は、もう私の夢とは繋がることはないのだ。
そういうことである。


どんなに素敵なことだったんだろう、
そしてそれが消えてしまったことが、どれだけ悲しいことだろう。
もしかしたら私だったかもしれないのだ。
彼女たちの夢は私の夢にはならない。逆も然りだ。
赤の他人の夢にこんなに思いを馳せたことはない。
けれど、痛みを通してはじめてそれに触れることになるだなんてひどい話がすぎませんか。
そんなことばかり考えている。