ミーハーでごめんね

ミーハーでごめんね

I AM LOWBROW, AND I'M SORRY.

ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣

つい先日、舞台『TOKYO TRIBE』を鑑賞するために渋谷に行った。
その帰り道、大きな通りに出たとたん目の前のバス停に代々木上原行きのバスが止まった。
乗ったら帰りがラクだな~~~でもちょっと歩きたいな~~~と思い、乗らなかった。
そして『Bunkamura』の裏を通って代々木八幡の駅に向かって歩いていた。


舞台の余韻にひたりながらぼんやり歩いていた。
そうしたら、映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』のポスターが目に飛び込んできた。
えっと思ってよく見ると、そこは有名なミニシアター『渋谷アップリンク』だった。
こんなところにあるのかよアップリンク!都内のミニシアターはなんて神出鬼没なんだ。


この映画『セルゲイ~』は私のインターネット周りでとても話題になっていた。
私も「観たいな~」と思っていたものの、よく調べもせず、どうせ機会もないし、観ることはないだろうと思っていた。
でもこんな道すがら、上映館に出会ってしまった。
しかも早いところでは7月から上映されて続々と公開終了になっている映画にも関わらず。
と、いう感じで、なんとなく運命めいたものを感じて(おおげさ)、ふたたび奥渋谷へ。




栄光の陰にある苦悩、みたいな宣伝なんかにおけるアプローチのわりには、
個人的にはあんまりそんな印象はない。
それは、"いま現在のセルゲイ"がいち「ダンサー」としてしっかり前を向いてることがわかったうえで仕上がった作品であり、
さらに映画のプロデューサー・ガブリエル・ターナや監督・スティーブン・カンターらが、
文字通り"セルゲイの背中を押したい"と思って制作したからなんだろうなぁ。愛だなぁ。


映画の終盤で自身でチョイスした楽曲『Take Me to Church』のミュージックビデオを撮影することになるセルゲイ。
彼は、この作品でもって踊ることをやめようとしていたという。



けれど、そこでのダンスを最後にしたくないという思いが芽生え、
"いま現在のセルゲイ"の「ダンサー」としての第二章がはじまった。
なんたってもう、『スッキリ』でパフォーマンスを披露しちゃうくらいの吹っ切れっぷり。


「(MVの)撮影中はずっと泣いていた」と話すセルゲイ。
そのことばからはいろいろなものが垣間見える。




若々しく青々しいロックミュージックはセルゲイにぴったりだった。
けれど、それらで彩られるドキュメンタリーは、反して妙な静けさのある映画だった。
セルゲイの"無の表情"との対比が鮮やかで、フィクションのようなドラマチックな境遇にあったひとのドキュメンタリーなのに、
誰もが持っている人間の心の姿をとてもリアルに描いていたと思う。


からっぽになったセルゲイの、あの"無の表情"。
とても綺麗だと思いつつも、とてもこわい。
そこからはこれまでの彼の人生を察することができる。静かな世界で。




映されていたセルゲイの半生は本当にドラマチックで、すさまじいものなのだけれど、
「つらい」や「苦しい」という表現がことばでされていても、
少なくともステージ上で踊っているときの姿は本当に楽しそうで美しくていきいきしていた。
実際に「宙を舞っているときだけは…」と、ダンサーとしての悦びを何回か口にしていた。
そんな作品のなかでのギャップを感じては「才能」というものはちゃんとこの世に存在しているのだと心底思った。


そのなかでもなにより突き付けられたのはセルゲイは「天才」だということだった。
バレエもダンスもよくわからないけれど、っていうか「セルゲイ・ポルーニン」という人物のことすら知らなかったけれど。
とにかく周りにいるダンサーたちとは違うのは一目瞭然だった。
「天才」とかいうことばは、かなり陳腐だけれど、それ以外にダンサーとしてのセルゲイを表すことばがちょっと見つからない。
パフォーマンスがとにもかくにも圧倒的すぎる。


それは終盤の彼を一躍有名にしたコンテンポラリーダンスの要素が強いと思われる「表現者」としてのセルゲイの姿を映したミュージックビデオより、
「バレエダンサー」として成長・活躍の様子をおさめた映像のほうが、比較対象があるぶん、わかりやすかった。




よく撮ってたなー!、と感心するばかりの幼い頃からのセルゲイの記録映像たち。
(11歳くらいでもうすでにビジュアルができあがっている…!)
それらからは、家族が、というか母親が、
いかにセルゲイの可能性と才能を信じていたかがよくわかる。
けれど、その類まれなる才能が開花し、世に認められたあとも、
彼はその経緯にあたる不満を母親にぶつけたりする。
家族というものはとても複雑だし、それはきっと私も含めどの家族にもある風景。




映画が終わりに向かうにつれ希望しか見えない未来にほっと安堵してしまった。
そしてこの明るいラストは"いま現在のセルゲイ"自身が導いたもの。


このすがすがしい後味は、ドキュメンタリーにしてはあまりにドラマや物語としてちゃんと成り立ってるというのもあるからなんだろうなぁ。
例えばこの映画はドキュメンタリーではなくて、セルゲイも他の登場人物も、「俳優です」って言われても違和感がまったくないというか。


だってセルゲイ、めっちゃ格好良くない?好き。



映画のなかでセルゲイが「もう誰も信じない」みたいなことを言っていたのに、
購入したパンフレットを読んだら「恋人のバレエダンサーと公演を開催」とか書いてあった。
あ~~~~~はやくも!あ~~~~~また失恋した!


併設しているカフェで案内されたのは大きなソファー席だったけれど、
すでにテッドとベイマックスミッフィーちゃんが座っていた。(どれもデカかった)
みんな、なぐさめてくれてありがとうな(涙)