そのニュースはエイプリル・フールということもあり、やや曖昧な状態で現れた。
韓国の、ふたりの「アイドル」の熱愛報道。
ふたりは報道がある前からカップル名がつけられるほど、人気のペアだった。
私もこのふたりが一緒にいることを好意的に思うひとりだった。
けれど、ふたりは「アイドル」なのだ。
ファンが"想像を膨らませ、つくりあげた理想のカップル"であった。
それがなんとびっくり「現実」の恋人同士となっていた。
そうなると話はまったく別だ。
先日視聴した連続ドラマ『武道館』。
「歌うことが好きで、踊ることが好きで、どうして人を好きになっちゃいけないの?」
アイドルである主人公・愛子の恋愛事情に対して、
その問いに堂々と反論することができない。
わかってあげられなくて、ごめんね。
でも仕方がないの、「アイドル」が好きだから。
というのが、私がしぼりだしたアンサーだった。
そんな矢先の出来事だった。
ふたりが惹かれあうことは悪いことではない。
これまでのことを考えればそれはあまりに自然なことだったのかもしれない。
ただ、それを素直に喜ぶことは私にとっては難しい。
ふたりはこれまで「アイドル」として誠実だったと思う。
第一にインタビューなどで公開恋愛を否定する姿勢を表明していた。
今回のニュースをスッパ抜いた報道機関には腹が立たないわけではないけれど、
まるでこのカップルのファンが思い描いたかのような記事からは、「悪」の要素は見られなかった。
むしろ、撮られたふたりは関係を隠そうともせず、
そのシチュエーションは撮ってくれと言わんばかりである。
ああ。
私のなかで、ふたりは「アイドル」として死んでしまった。
悪いのはいったい誰だ?
ふたりは所属事務所が同じである。
否定もできたはずの事務所が認めたのだ。
この事務所というのが、「これからは"セレブリティの時代"」だと声高らかに宣言している。
(これはこれでかなりイタイ)
それが、"セレブリティの時代"="カップルを推し出すことでセレブとしてタレントの価値を高めること"なのではないかという見方がある。
この説が本当なら、ふたりの育んでいたものは晒されたことで"セレブリティの時代"の犠牲となったように感じる。
まだ若いふたりはセレブどころか俗っぽくて生々しいただの普通の男女だった。
私のなかでは「セレブ」どころか「アイドル」ですらない存在になってしまった。
それ以前に"プロの「アイドル」"であったふたりへの失望も、もちろんある。
ふつーにショック。ショックだよ、馬鹿野郎。
これからどんどんふたりについて新しい疑惑や噂が出たりするだろうけど、
それらは真偽は関係なく、"そういう説が出る"、というふたりの"「アイドル」としての「落ち度」"だ。
4月1日は、私の推していた宮澤佐江ちゃんが、晴れて"「アイドル」を卒業"した日だ。
記念すべき日だった。
その一方で、ふたりの「アイドル」が死んだ日である。
ふたりを「アイドル」として接することはもうないと思う。
私は、ふたりそれぞれを"応援していた"わけではないことがよくわかった。
私は、ふたりそれぞれに"「アイドル」を夢見ていた"のだ。
その夢は醒めてしまった。あまりにもあっけなかった。
彼らが今後、どんなにファンに「愛している」と言っても私にはきっともう響かない。
定型文は虚しくその場に転がるだけだろう。
私は「アイドル」のふたりが好きだった。
とっても淋しい。