ミーハーでごめんね

ミーハーでごめんね

I AM LOWBROW, AND I'M SORRY.

共犯者たち

K-POPにハマりたてのころ、
"韓国の音楽番組がテレビ局のストライキにより休止"という状況が何度かあり、
私はそれを隣の国・日本でわーわー言っていたのですよ。
まさかこんなことになっていたとは、感。
ここで繋がるんだ、というか、ここで繋がったかというか。


ある時期、本当にストライキが多くて、また?また?みたいな感じだったの、覚えてる。
あのときは、テレビ局がストライキってどういうこと?だったし、
いまこうしてその内容を知って、ただただ驚くばかりなのですが。


いまでこそ馴染みのある名称の韓国のテレビ放送局『KBS』や『MBC』。
建物が映れば、ああ…音楽番組観覧の女の子たちはいつもこのへんに並んでるのかな…とか思ったり。
映画本編の舞台そのものがKBSとMBCそのものだったので、
もうひとつの地上波放送局『SBS』ではどうだったのだろうと気になったりも。




韓国という国のメディアが政治権力に占領されていく様子と、
それに立ち向かうジャーナリストたち。
過剰な演出のない外国のドキュメンタリー映画だったので、
観ている最中はついていくのにやっと、というかなかなか掴めないという感じでした。


でもいまこうして映画を思い返すと、いやいやとんでもない作品だったな、と。
例えばこの作品で「韓国」であった部分が「日本」であったらどうだろうかと思うと…
まず"公開されることはありえない"というのが、いの一番に浮かぶ。
そういう作品だった。


こういった作品がつくられたのもすごいし、こういった作品が公開されたのもすごい。
語彙がないので「すごい」しか言葉が出てこないのが恥ずかしいけれど、すごいものはすごいので。
そしてなにより、現場でいまも戦い続けているひとたちがいる。


もしもの話でもあるけれど、日本だってまったく同じじゃないにしろ、
きっとそういうことはあるでしょう。
それを今年の映画、邦画だけでも『主戦場』『新聞記者』とで突きつけられて、
ふだん普通にテレビを眺めているだけでも何かを感じざるを得ないもの。


そして改めて、韓国という国のひとたちは、
ひとりひとりの「声」が、とても大きいと感じます。
映画『バーニング』で見せつけられた社会の閉塞感のようなものをみんながみんな打ち破りたいのだということが伝わってくるし、
その「声」が日本とは比べ物にならないほどの凄まじい「攻撃」というかたちでインターネットにはびこっている現状も、
悲しいかなそういった面では無関係ではないと思ってしまうのです。



ちなみに翻訳は我々にはお馴染みの根本理恵さんです。



そして映画のなかでも散々出てきたMBCの報道番組『PD手帳』、今日なんですよね…
なんで今日やねん…ってか私のほうも他に日がなくて…
そもそも本作の監督のチェ・スンホ氏は偶然にも(?)『PD手帳』のPDだった方で、
劇中では"『PD手帳』のPDが解任された"的な皮肉な言い回しがあったりもしました。
チェ・スンホ氏は2012年にストライキへの参加を理由にMBCを解雇されています。
そんなチェ・スンホ氏が、なんと2017年に本作が韓国で公開されてからMBCの社長に就任したのだそう。
この映画、後日談まですごい。
そのチェ・スンホ氏率いる現在のMBCで放送される『PD手帳』という番組が、
まさか一介の隣国のドルヲタにとっても、とても他人事じゃないっていうね…ハーーー。
そのジャーナリズムが夢を持つ若者の未来を傷つけることがないことを願います。

ジョーカー

誰にも理解されなくてもいい。
私はこの『ジョーカー』という映画を大切にしたい。


たとえば他の誰かが『ジョーカー』を大切な映画だと言っても、私はわからないと思う。
だから私が『ジョーカー』を大切な映画だと言っても、誰もわからないと思う。
だって「わかる」はずがない。




観ていてつらいと思うのに、私はつらくない。
観ていて悲しいと思うのに、私は悲しくない。


高みの見物なんてとてもできない、つらくて悲しい映画のはずなのに、
どうしてだろう、まるで何かが私のそばにいてくれるかのようなあたたかさみたいなものを感じた。





映画として対峙することはできなかったように思う。
私は終始"アーサーの物語"と対峙していて、それは私を映画というものから遠ざけた。
それくらいこの作品は私に入り込んできた。
ホアキン・フェニックスの素晴らしい演技、センスに富んだ映像づくり、音、
こちらに届くそれらすべてが私に"アーサーの物語"と向かい合わせさせる。


でも同調はしない。だから私はジョーカーにはならない。
「なれない」んじゃなくて「ならない」。


私はアーサーを哀れむけれど、映画は私のことを哀れんでいるような気もする。
けれど別にそれが嫌というわけでもない。




私はジョーカーにはならないし、なれない。
一方で、アーサーはジョーカーになった。
それだけのことなのだけれど、それだけじゃない。
私は共鳴してしまっている。


それがなんなのかはわからない。単なるダークヒーローへの憧れかもしれない。
けれどジョーカーはダークヒーローなのだろうかと問いかける自分もそこにはいて、
それに対する私の答えはNOだし、でもYESでもある。




エンドロールがはじまると、びっくりするくらい大勢のひとが席を立った。
私は通路席にいたものだから、すぐ横をスクリーンを去るひとがたくさん通る。
みんな私を追い越していく。


単純に大きなスクリーンだったから、それだけエンドロールで席を立つひとが多いというのは頭ではわかるのだけれど、
それでもみんなどうしてエンドロールを観ないのかと、
スクリーンを眺めながら私だけが『ジョーカー』という作品に取り残されていく。
そんな気分にもなった。
けれど私はそれをさみしいとは思わない。


そのとき聞こえた「俺には難しかったわ」というぼやきが耳にこびりついている。
私は涙が止まらなかったけれど、それがどうという話でもない。

ATEEZ 正規アルバム1集「TREASURE EP.FIN : All To Action」 コンセプトフォト




ありがとう。



『ATEEZ』に在りし日の俺のK-POPを重ねてしまう私です。
アチズことエイティーズのことはほぼなにも知らないし、グループ名の呼び方ですら最近知ったような感じなのですが、
その程度の微々たる情報量からでも、彼らの在りし日の俺のK-POPをやってくれているな~と思える存在感がありがたすぎます。君の名は希望


で、今回のティーザーイメージなんですけど、
こんな強い超どコンセプトをバチバチにキメてくれるグループ、いま他にいないですよ。
(まさかのトラジャとちょっと相通ずるものがあるのはわらったけど)
もしかしたら他にもいるのかもしれないけれど、
クオリティ的な面でも、あくまで自分の観測範囲外からもしっかりと届いているかという点では他にいない。



個人ティーザーもすごいです。




もしかして、最近てティーザーイメージの在り方変わってますかね?
最近のK-POPアイドルのティーザーイメージってコンセプトはあるにはあるけれど、
どうしても「コンセプト」より「被写体」のほうが比重が大きいものばかりのような。
それって既存のファンには響くけれど、なかなかその他には響きにくい気がします。


画像ティーザーなんかは一目で目に入るとても効果的なものだと思っているんですが、
まだまだビジュアルイメージでアプローチできるのではというチームでさえも、
最近は普通に被写体が綺麗に写ってるお写真を全推しという感じで、
もはやいろいろ察してしまう身としてはそれに対して勿体無いとも言えないというか。
ただ個人的な感想でつまらないな、とぼやいて終了という。嗚呼かなしい。
その代わりなのか、ところによってはどんだけあんねんというくらいティーザーの数がめちゃ多いのも納得しちゃう…
もはやアルバムブックレットのスポイラーでは。


また、ティーザーが出始めてからカムバックまでの期間も長くなった気がします。
コンセプトの世界に浸ろうにも合間にまったく別の供給が挟まるパターンもあるので、
そりゃ祭り感は損なわれるよなぁという印象。


最近は界隈全体が"「コンセプト」が「コンテンツ」(プデュやコンテンツ化したアイドルなど)に勝てない"ような流れになっているように感じられていて、
ティーザーイメージにまでそれが及んでいるのかなとか思うとまぁそれもわからなくはない…という感じなのですが。
『SuperM』とか見ているとそういった点がわかりやすい。
アメリカ云々は置いておいて)"あの"コンセプトというものをめちゃくちゃ大事にしてきて、プデュなどとは真逆にいたエスエムが"そっち"なのかと。
イスマンの夢のHollywood…(ここでもトラジャ)
しかし"「コンセプト」が「コンテンツ」に勝てない"っていまのK-POPの格差のしんどさの象徴のようなものですよね…




そうした昨今の牙の抜かれたK-POPのビジュアル攻勢のなかで、
唯一牙を剥き続けているかのような『ATEEZ』の姿勢には感謝しかないです。
また、私は本当にエイティーズのことを知らないので、
"なんかいろいろ凄いんだけど謎の存在"という感じで、彼らには勝手にラスボス的なイメージを抱いていたりします。





エイティーズのえらい~って思うところは、
アクが強めのコンセプトバチバチビジュアルのときは、
同時にちゃんとファンも嬉しい被写体バチバチビジュアルも用意してるんですよね。



手厚い。



そんな彼らの記念すべき1stフルアルバムのタイトル曲は『WONDERLAND』



『ATEEZ』、ミュージックビデオもパフォーマンスも、在りし日の俺のK-POPを体現してくれているようなイメージがあるんですけど、
そこらへんはまだ、こちらはこじ開けられていないんです。
それでもエイティーズがドカンといってないんだったら、
そらいまのK-POPが私が好きなやつじゃないの納得だわーと思えるくらい、
めちゃくちゃザ・K-POPな存在だと思っているので陰ながら応援したい次第です。

私の名刺。

師匠の展覧会に行ってきた。


そう、私、師匠がいるんです。いいでしょ。
以下、そんな私の自慢話です。




圧倒的な空間、錚々たる作品が並ぶ展示。
そのなかに自分が関わった作品があるのは、そりゃもう誇らしかったし嬉しかった。


私が関わっていないずっと昔の作品ですら懐かしく感じたのは、不思議な感覚だった。
たぶんそれらも含めて私に染みついているのだと思う。
だってずっとそれらとにらめっこするような環境にいたから。




師匠は私にとって、とても偉大なひとです。
いまでもずっと憧れのひとです。


そんな師匠のもとで働いたこと、後にも先にもたったひとりのアシスタントであることは、
私にとっては自慢だし、それは私にとって「名刺」です。




師匠のもとでは私は残念ながらあまり成長することができませんでした。
恵まれていた環境だったにも関わらず、
いつまでたっても成長できず、ずっと自信のなかった私は、
ここでは"いま以上"にはなれないと思い自らそこを離れました。
その理由や想いもしっかり師匠に伝え、
結果、いまもこうして関わりがあり、関係が続いています。


当時は穏やかで優しいひとだとわかっていても、
仕事に関してはとても厳しく、やっぱりすごいひとだったのでとても怖かったし、つねに緊張していました。
けれどいま、私は師匠と当時からは想像できないくらい親しくさせていただいている。
当時より成長した自負があるし、なにより、いま自信を持って仕事ができるようになったからでしょう。




そうなれたのは、師匠のもとで得た「名刺」のおかげです。




その名刺はかたちのないものだけれど、
どんな資格や免許より価値がある(と、私は思っている)、さながら私の人生のマスターキーのようなものです。
いまの私があるのはこの名刺のおかげといってもいい。


そしてこの名刺は破れたり汚れたり色褪せることもないので、
これからも私を支えてくれるのだと思います。
ただこの名刺、いかんせんかたちのないものなので、
普段持っていることを忘れがちになるのがちょっと難点だけど。




そんな名刺を持たせてくれたひとを、今日はじめて直接、親に紹介しました。
私は師匠を親に会わせることが夢だとかはいっさい思ったことがなかったけれど、
実際、親が師匠に、師匠の作品とともに対面した様子を見ては、
これもまた私が見たかった光景だったのかもしれないなと思いました。


そしてそんな空間はとても離れ難かった。
まるで自分の一部のようだったから。
それが、私が持つその名刺がいかに大切なものかということを、
改めて強く実感させてくれるのです。

『狼煙が呼ぶ』公開記念トークイベント&サイン会

〜想像力の自由のために〜

 2019年4月18日、拳銃不法所持で僕は逮捕されました。その拳銃は祖父が戦争中に自分の身を守るために使っていた拳銃。父親は祖父の拳銃を形見として引き取り、ずっと大切に持っていました。実家を処分したとき、その錆ついて動かない、YOUNG AMERICAというリボルバーが僕の家へ送られて来ました。僕には父の想いが詰まった拳銃を捨てることはできませんでした。法という権力は想いより強いのか? 本当に想いが負けたのか? そのことについて、物語を作る者として釈然としない気持ちが残りました。この事件に対して、映像で意志を返答したいと思い、この企画を考えました。

 映画監督は映画で返答する。創造することを楽しもう。いつまでも。権力のない想像力は無限の未来を夢見る。そのことを信じて。

https://www.imaginationtoyoda.com/norosigayobu


映画『狼煙が呼ぶ』。
『新聞記者』と『共犯者たち』と『主戦場』のチラシが並ぶ劇場で観た。
トークショーを挟んで、「メディアとは」ということをまた考えざるを得ない。


来場者には神社の袋に入ったお札(ふだ)とステッカー付きという粋な計らいの本作。





正直に言うと、この作品については豊田監督が「映像で意志を返答したい」という、
その"「意思」を見た"としか言えない。
あまりにもあっという間だった16分の映画は噂どおり体感2分…いや個人的な体感であれば一瞬だった。
その一瞬が「意思」だった。


映画云々に関しては映画本編の約倍の時間設けられた30分のトークショーと、
そのあとのサイン会があったからこそ…という気がするのが正直なところで、
作品自体に関しての感想はすごくぼんやりとしている。


ぶっちゃけ、「16分の作品」に対する値段の感覚が作品を観たあとに変わったかというと個人的には微妙なところ。
「体験」としては貴重だし、アリだったけれども。




けれど、


名だたる出演者のなかで、そのわずかな時間で佇まいだけで圧倒する高良健吾を大音量に包まれるスクリーンで見ることができたということは、
ファンとしてはとても"贅沢をした"という気持ちはある。




はっきりとわかるのは、
"16分の映画作品を史上初・ミニシアターで全国一斉上映"したということ。
アップリンクの方の提案だったそうだけれど、
豊田監督自ら全国のミニシアターに掛け合い、渋川さんも3件くらい手伝ったそう。


これがどういうことなのか。「狼煙」(のろし)とはこのことなのではないか。
オファーをした役者さんのなかには所属事務所が難色を示してもそれを押しのけて出演をした方もいるそう。
そういうことなんじゃないか。


誰にでもできることではない。
ただ豊田監督は豊田監督のやりかたで「意思」を見せたんだよなぁと。
どうしても文字にするとぼんやりしてしまうのが歯がゆいのだけれど、
作品自体はぼんやりどころか鋭く強く重く、とてもはっきりとしたものだった。




イベント登壇者は、豊田利晃監督・渋川清彦氏・伊藤雄和氏。
作品とは打って変わってご本人たちの醸し出していた雰囲気も含め、おだやかでゆるやかな時間だった。
伊藤さんのお誕生日だったのでトークショーではケーキを用意してお祝い。
バースデーソング歌えなくてすんませんでした…


豊田監督にサインをいただく際に、
なぜ高良健吾さんをキャスティングしたのか聞いてみたのですが、
豊田監督と高良くんは高良くんが19歳のときからのお友達なのだそうです。
監督に「さては高良くんのファンだね?」と言われ、
他の役者さんが隣にいるにも関わらず、どデカイ声で「そうなんです!」と返事をしてしまったのでせめて高良くんのファンに届け…
トークショーでは伊藤さんが高良くんは抜刀の練習で泊まり込むんだよなぁ、なエピソードを教えてくださいました。(本作でのエピソードかは曖昧)


そして伊藤様、サインをいただくポストカードのお写真を間違えて大変失礼いたしました!
長机に左から豊田監督・伊藤さん・渋川さんと並んでいたのですが、
隣にいた渋川さんに「ぜんぜん違う顔じゃんwww」と笑われ(汗)
不肖ミーハー、超有名人のお方たちを目の前にして超緊張、全体的にめちゃくちゃテンパってしまっておはずかしい…




それにしても。
私の人生の予定には本物の高良健吾を見る予定もなかったし、
『青い春』の監督に高良くんのことを聞く予定もなかったし、
KEEさんにサインをもらう予定もなかったんだけど、
ここ最近そういう時期なんだろうか…人生って本当にわからないものですね。


俳優さんや監督さんのお話、もっと聞きたいなー。
創造物よりも生身の人間のことばのほうがインパクトは上回ってしまうのだけれど、
それでも、ものをつくっているひとの話を聞くのはとてもおもしろいし、楽しいです。
そしてそんな機会に、ありがとうございます。

だから私は推しました

すごいドラマでした。


"地下アイドルと女ヲタの話"っていったら、
まぁちょっとおもしろそうだなって思うじゃないですか。
それだけでもすでに掴みはオッケーなんですけど。


攻めてるNHKの夜ドラ、
前シーズンは『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』の枠。


本作はあらゆる面でクオリティが本当にすごかった。




"地下アイドルと女ヲタの話"ではあるけれど、
ドラマの大枠に漂うそれが終始ひんやりとしたミステリータッチであること。
「推す」と「押す」ってな。
これがこちらの想像していた"地下アイドルと女ヲタの話"をいい意味で最初から覆します。


で、最終回で見事にそれらは回収されます。
ラストはそれまでの濃度や密度に対してこざっぱりしていたのがとてもよかった。



「私の鍵閉めは愛さんしかいないじゃないですか!」



ずっといた取調室で。
愛が着ていたパーカーはハナのだったんだね。
愛はハナ、そしてサニサイの最後のステージをその目で見ることはできなかったけれど、
愛が持っていたラストライブのチケットはハナによってちぎられた。
もうこれがそれだよな、ディス・イズ・イット。




私のアイドルファンデビューはいまでも5ちゃんねるでは「地下アイドル板」といわれるところにスレッドが立つ『AKB48』だったけれど、
それでも「地下アイドル」のことはあんまり知らないです。
アイドルファンなので、まったく知らないわけではないけど程度。
(でもこれも「メディア」から発信される「情報」を知っているだけなので"知ってる"というと語弊があると思う。)


でもそんな程度の私でも、いろいろリアルだな~って思って、
いちアイドルファンとしては毎回「わかる~」とか「それは知らなかった」と、おもしろく視聴していました。
女ヲタである愛(桜井ユキ)が推し・ハナ(白石聖)のためにとチャットレディの仕事でお金を稼ぐのとかすごいあーこれ…って思ったし、
お互いの距離が近すぎるあまり推しがウソついてるんじゃないかとか…あー…みたいな。


「アイドルとファンの関係」というより「人間関係」になっていって…
そうなってくると私だったらキツイ。
「アイドルとファンの関係」でいたいもん、一方通行がいい、趣味だから。
私はアイドルには「人間関係」みたいなものとは別の次元に存在していてほしいから…
そういった部分はやや違う界隈であれど同じアイドルファンとしては揺さぶられました。


けれどこのドラマは「人間関係」を描きます。
「人間」がつくりだす「人間関係」があってはじめて「物語」ができるということを鮮やかに描きます。それが「ドラマ」です。


その「ドラマ」が私自身が持っている気持ちにスッと入ってくる。
だからフィクションなのに刺さるし、ストーリーが進むにつれて濃度や密度が増していく様子にすごくリアルを感じる。




このドラマのすごいところはそんなふうにこちらにいろいろ考えさせてくれる余白がある。
「地下アイドルの闇が~」的な見方もできそうなものなのにそうはならない。
"地下アイドルと女ヲタの話"とか結構なパワーワードだし、
それを押し付けようともできるけれどそれはしない。
実際にそのふたりが主軸になる物語なのだけれど、
そのふたりをちゃんとひとりひとりの「人間」として描いているんです。




役者さんの演技、とくに静かだけれど熱い変化で魅せてくれた桜井ユキさんの熱演や、
森下佳子による秀逸と言わざるを得ない脚本もさることながら、
その一番大きな要因は映像だと思います。
いろんな煌めきを映した映像が本当に綺麗で。


「アイドル」はもちろん、「女ヲタ」側もそういったふうに映します。
"地下アイドルと女ヲタの話"だけれど、終始「人間」の煌めきに焦点を当てているように感じます。





カメラワークとか演出とか質感とか、とにかく映像が綺麗で。
"地下アイドルと女ヲタの話"だと思っていたのに、
気がついたら「人間」の美しさというものに心奪われているんです。


そして、それをちゃんとつくりたい、という制作側の真摯な意思もまた伝わります。
ドラマも泣けるけれど、そんなものづくりの精神にも泣かされるんです。


たぶん、映像をいちばんわかりやすく表現することばは「エモい」だと思うのだけれど、
そう形容することすらためらわれる美しい視界。
こんなすごい映像を土曜日の夜23時30分から放送の30分ドラマで見せられて。
これが贅沢以外の何であるのかと。
『QP』ドラマ版『HiGH&LOW』を見たときを思い出します。
あまり前のめりにドラマを視聴しているわけではないので、
そういったドラマにうっかり出会ったときはとにかくラッキーという感じです。




映像が振り切れていることをはじめ、
ドラマが本当に見ごたえがあって本当におもしろいのでみんな見て…(終わった)
再放送待ったなしでしょNHKさん。
"地下アイドルと女ヲタの話"と取っ掛かりはイロモノを見る気持ちでいいからもっともっとたくさんのひとに見て欲しい。


「人間」が、美しいから。


っていうか総集編版でいいので映画にしてほしい、映画館で観たいです。
本当に素晴らしいドラマでした。
受信料は、無駄になってない。




("アイドルのドラマ"つながりで、そういえば吉沢亮ってドラマ『武道館』に出てたな~ってなんかしみじみしちゃう。)